手探りの欲望、あるいは表象を超える絵画
文:田中正之

ギャラリーアルファエム「成層圏 vol.1「私」のゆくえ」展覧会テキストより(2011年)

      

 

のたうつように見える手探りの痕跡。椛田の絵画はこの痕跡で占められている。絵画の向こうに何かを(おそらくは決して見出すことのできない何かを)探し求めているかのようなその痕跡は、まるで手探りの欲望がむき出しにされ、そのまま画面上に固着したかのようにも思える。絵具が欲望のフェティッシュ(代理物)にも見えてくる。そのため絵画は表象(リプレゼンテイション)であることをやめている。あるいは決して明瞭な像をこちらに返すことのない鏡の作品。はっきりとした像が見えないために、それは見る者の居心地の悪さと不安とを助長し、像を求める手探りの欲望を、掻きむしりたくなるような欲望を刺激する。こういった手探りの欲望への執着は、いったい何なのだろう。それを、たとえば身体的に把握される世界、という問題として捉えてみたいのだが、どうだろう。もう少し言えば、言語(表象)以前の身体的世界の存在可能性として、である。
自分が実際に、現実に生きている世界の範囲は一体どれくらいの広さなのか。心理学では、そういったことが考察されている。電車や飛行機に乗ればどこにでも行けるのだとすれば、自分の生きる世界は限りなく広がっているように思える。自分の存在できる世界は可能性としては無限だ。しかしたとえ東京からニューヨークに移動しようとも、自分がその瞬間その瞬間で実際に生きている場所は、実は非常に限られた範囲でしかない。領域としては目で見ることができる範囲に限られ、実感としては手や脚など躰の一部で触れることのできる範囲に限られている。五感という身体的感覚の及ぶ範囲が、生身の自分が、身体的実感をもって生きることのできる範囲で、それは実は非常に狭い。そして、その範囲を超えて広がっているのはあくまでも想念のなかにしか存在していない世界、観念の世界である。ニューヨークにいるときには、東京はあくまでも観念の中にしか存在しない。この観念の世界を構築しているのは、いうまでもなく言語だろう。つまり身体的世界の周りに表象的世界が取り巻いており、人はそのようなふたつの世界を同時に抱え込むことによって自分が生きる世界を構築している。しかし、言語を習得する以前は、自分の生きている世界はすべて身体的実感で充実していたはずである。
自分の身体そのもので実感をもって生きている世界と、表象として(身体とは直接関係なく)構築されている観念的世界の間には、見えない壁が立ちはだかっている。椛田の作品は、この壁を顕在化させたようなものだ。そして表象以前の身体的実感をもった充実を取り戻そうともがく欲望がその壁をのたうつのである。まるで言語・表象を超えて生身の身体だけで自分の世界を再び構築しようとするかのように。だから椛田の作品は、表象を超えようとする絵画だ。