黒い身ぶり
文:仲世古佳伸

アートラインかしわ2011「夜の底を流れる水」展覧会テキストより(2011年)

      

 

僕は今、先日アートフロントギャラリーで拝見した、あの"黒い絵"のことを思い出しています。絵を見て感情的になるのは得意なのですが、緊張してしまうとは思いませんでした。指や手で絵の具をグニュグニュすれば、勝手に触覚も痕跡もマチエルも生じるのは自明のことですが、描くのではなく、指や手で絵を探る椛田さんの身ぶりを想像して、僕は、失礼、ギョッとしてしまいました。


誰もが3.11の、あの日の黒い津波の映像が脳裏に張り付いています。しかし、あのテレビ映像の中では、みごとに人間が消去されていましたね。「見えているのに見ることができない」という椛田さんの声は、闇を暗示する言葉です。歴史や出来事や、日常さえもがときに闇に葬られ、その行方不明の所在を探るときの人間の見ぶりとは、恐ろしいことです。荒ぶる大津波に巻き込まれ、溺れ死んでいく人間を、芸術は救済することはできません。ただ闇という次元がたちはだかる、そのもがきの中で、無数の最後の言葉、一個の最後の眼差しがあったことの意味を探るために、椛田さんは恐ろしい、あの黒い水の内に呑み込まれていったのですね(いや、勝手な僕の想像ですが!)。


ところで、最初に椛田さんの黒いボールペンで塗りつぶされた本や紙の作品を見たとき、僕は"炭焼き"みたいな黒だなと思いました。炭には水を浄化させる力があるようですが、汚れと浄化の両極を併せ持つ黒とは、日本人にとって特別な色かもしれませんね。椛田さんの描く黒は、時に深遠を湛え、ときに神経を逆撫でし、森羅万象の黒神たちがニュウッと顔を覗かせます。それはやはり、境界をまたいでいく、不確かで、恐ろしい闇の黒と呼ぶのが相応しいように僕には思えるのです。


今日は黒のことばかり書いてしまいましたが、今度の作品は浴室で展示されるみたいですね。禊ぎの場である風呂場での個展は、まさに椛田さんにぴったりの場所ではないでしょうか。最近好んで使用している鏡へのドローイングと、黒い水たまりを配した展示になるようですが、歪んだ鏡の像の反射と、黒い水の関係は、紀州の銭湯の息子だった僕から見ると、湯気で曇った洗い場と、男と女の垢で濁った浴槽を思い起こさせます。はたして何が見えてくるのか、今から楽しみです。


見えることの所在を執拗に追い求める椛田さんの身ぶりと、混乱し続ける日本の風景とが被さります。この新たに始まった"終わらない日常"の重すぎる空気の内に、僕らの眼の前にあるはずの未来が、緊張し、歪み、乱反射して、まともに見ることを遮る者の正体とは、一体誰なのでしょうか。